第五話:不死身鳥と黒天使

 

四月一八日。午後三時三二分。偽装トラック内。

 

 モニターを見渡しながら、真神京香のプロフィールが書かれたファイルを捲るマジョ子は、ニヤリと不敵な笑みを作り上げた。

 世界でたった六人しか確認。そして認定されていない、被免(アデプタス・)達人(エクスエンプタス)の中で〈神殺し〉という集団ほど、戦闘能力に特化した魔術師はそうはいない。

 それほど、常識外の世界では偉人を誇る彼等、彼女等でも被免達人のほとんどが、戦闘のポジションでは砲台の役割である。しかも、砲台としてしか役に立たない。大魔術の詠唱に特化し、中には空間や時間すら作用する魔術を行使する。だが、詠唱中に攻撃をくわえてしまえば、それで終わりである。

そのため、平均的に前線では意味をなさないどころか、ありとあらゆる戦闘に、ほぼ向かない。否、マジョ子に言わせれば、喧嘩をするなら〈魔術〉などを覚えず、中国拳法か空手を覚えた方が幾分、マシになると巳堂霊児という存在に出会ってから思っている。

 そして、魔術を使用した戦闘を視野に入れた魔術師など、〈ガートス家〉、〈八部衆〉、〈退魔家〉だけである。残りの〈連盟〉所属にあたる魔術師は、科学では到達できない思想、思考、信念を実現するだけにあるのだ。

 さらに、マジョ子が五年前に闘った被免達人がいい例でもあった。大魔術を同時に三つも行使できる強敵であったが、マジョ子にとってはまだまだ、いくらでも手段はあった。

 表世界の完全な抹殺と、資金面を完全に落としての長期戦で制した。

 そして、今回の真神京香はさらに制しやすい敵でもある。

 直接戦闘を徹底的に避けるだけで、いいのだから。

 

「経歴は凄まじいが、それは直接戦闘すればだな」

 

「確かに。いくらでも手段があります」

 

 レノは静かに頷く。

 

「それより、先ほどCチームからの連絡が来ました。何でも、太陽(ソル)が見つかったと」

 

「本当か? なら、いいニュースだな」と、マジョ子は同意するように頷くが、レノは首を捻り、在らぬ方向に目を向ける。

 

「フィアットで爆走しているそうです」

 

「はぁ?」

 

「あまつさえ、一般人のケツを車で小突き回していると連絡が入りました」

 

「何だそりゃぁ?」

 

 

 同時刻。国道。

 

上半身裸で、ひたすら走っている。ただひたすらに走り続ける。

 もう、これでもかって位に走りつづけて走り続けて、走りまくる! 急なS字をガラガラヘビの如く走り抜ける。

 しかし、おれの走行ラインに沿うように、紅きフィアットは後輪を滑らかに、なおかつ、度肝を抜くスピードでピッタリと付いてくる。

 バンピーな歩行者から運転手の皆様まで、唖然と呆けたような顔。そして、軽い目眩を起こすような眼差しでおれと車に視線を送っていた。

 

「誠ォォォォォォォォオ!」

 

 怒りの如き咆哮。

 皆殺しの烈声を放ちながらも、その人の内面を知らない者が見れば戦女神の如き美貌。しかし、走り続けるおれのケツに車体でドカドカと当てる苛めっ子。

 運転する人間はおれの母ちゃんという、泣きたくなるような現実。そして、絶望。

 

「ヒィィィィィィィィィィィィィイッ!」

 

 何故だ? 何故なんだぁ? おれが何をしたんだ?

 

「待ちさらせぇや! ぶっ殺して蘇生してぶっ殺す!」

 

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖ぁ!

 

「マジですか? 息子っしょ! 不出来でも可愛い息子でしょうが! 母ちゃん!」

 

「人前で、母ちゃんなんて言うなクソボケがぁ! お母様か、母君と呼べや!」

 

 こんな時でも、時代劇好きなんだね? 何て、和む訳が無い!

 

 クソォ! どうする? どうすればいい? てか、助けて天国にいる父ちゃん!

 

 

――――誠? 京香さんの気持ちも理解してあげようね?――――

 

 

 って――――――――――――ヤバ! 何か、幻聴が聞こえた? 何、今の? 何なのさ! てか、何で青空に爽やかな笑顔が映し出される? 映画じゃあるまいし! つぅか、誰だよ、あんた?

 

「返事しろや! このアホンダラァ!」

 

 ひぃ! 視線で人が殺せるような目で睨んでいる!

 このままでは、ケツが偉いことになってしまう! それにもう限界だ! 母ちゃんのドライビングテクニックは、アヤメさんと肩を並べる危険走行! 俊一郎さんと張り合う目立ちたがり屋!

最悪な組み合わせの母ちゃんが、ただケツを煽るだけに終わる訳が無い!

 こうなれば!

 おれはチラリと左カーブにある、ビルとビルの細い、細い裏道を発見! 迷わず、そこへ方向転換して迅速に走り抜ける。

 ここなら、大丈夫だ。たとえ、母ちゃんがどれだけすごいドラテクを持ってしても、鋭角過ぎるカーブと、おれ一人がギリギリ走れる隙間なんかに――――

 しかし、甘かった。甘すぎた。綿菓子にイチゴシロップを塗るよりも甘くて、不味かった。

 背後を確認しようと視線を向けた次の瞬間――――ドカンッ! という破砕音が鳴り響く。

 運転席のドアを開け、ハイヒールの踵でコンクリートを抉り、その支点にフィアットは方向転換! さらにそのまま片輪走行だぁ? マジッすか!

 

「逃がすかぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」

 

「母ちゃん! おれが生まれる前に何して食ってたんだよ!」

 

「スタントマン、秘書、通訳、翻訳、料理教室講師、護身術インストラクター!」

 

 早口で返答された。

何なのそれ? 職種が全然、共通点が見えないけど? しかも、今はファッションデザイナーだし・・・・・・・・・・・・母ちゃんの過去って一体?

 

「あとこの頃、モデルにならない? って、スカウトマンとかに良く声を掛けられるが、自分の仕事とか、家庭があるから断っている。まぁ〜B九三、W五八、H八七だからなぁ〜マリリン・モンローもびっくりだからなぁ〜」

 

 そして自慢っぽい! 自慢しているけど、生ゴミが入ったポリバケツを引き散らかして、鬼気迫る眼光のまま、おれを追っかけて来る!

 しかも、おれの走る先は袋小路だ! 追ってくる母ちゃんはまったくスピードを緩める気は無いらしい。

 

「ハッハッハハハァ! 死ねぇ!」

 

 えっ? マジ? 息子向かって言っちゃうセリフ?

 

「ふっ――――フフフゥ・・・・・・・・・」

 

 と、おれは知らずに笑みを零していた。これが狙いで、これがおれの策! たかが、二〇メートルの高さしかない塀など!

 

「とぉ!」

 

 膝に撓めた力を一気に解放! 全身で空気を裂き、塀を軽々と越えて隣ビルの屋上に猫の如く着地。

 さらに撓めた両足でジャンプ! 二〇メートル先の屋上、三〇メートル先の屋上と、蒼空に身を躍らせる。

 そして、八回目の屋上に降り立ってからおれはカラカラな喉で、呼吸を整えるためにその場で膝を付いて、ゲエゲエと喘いだ。

 

「――――ここまで――――ゼェ――――来れば・・・・・・・・・」

 

 異様に渇く喉を潤したくて、唾を飲み込みつづけても全然足りない。しかし、そんなおれの横から冷たいスポーツ飲料が、ぬっと出された。

 

「あっ、ありがとう・・・・・・・・・」

 

 出されたものを素早く受け取り、タブを開けて一気に喉へと流し込む。

クゥゥゥウ! 生き返るぅ!

 

 

って・・・・・・・・・・・・いや、待てよ。何で、ビルの屋上で冷えたスポーツ飲料が?

そしてどうしてビルの屋上でエンジン音が響いている?

 

 

「気にすんな。私のおごりだ」

 

 

「ヒィッ」

 

 生きた心地のしない、我が母の邪悪なる声。背後にいるであろう母ちゃんに――――おれは振り向けない。

 

「巻いたと思った人間からポカリをおごられ、あまつさえ背中を向けている気分はどうよ? 例えるなら、砂漠の一戦だな。近距離パワー型に距離を詰められた、遠距離スタンド使いの心境だろ?」

 

「何の例えだよ? 解り難いよ!」

 

 うん? と、眉を寄せる気配。

 

「ああ〜お前、ジャンプとか見ないモンな? 今度から読んでおけ」

 

 良く解らない納得の仕方をする母ちゃんは、ガッシリとおれの肩を掴む。

 

「そして、こっからは予習になるかもしれないなぁ。動きたきゃ、動け。そん時はディオの最後って奴を教えてやるぜ」

 

 ますます、わからねぇ! ただ、解るのはここで身動き一つでもすれば、背後からおれの動きを止めるべく、攻撃を仕掛けるに違いない!

 

「さて? 説明してもらおうか? 誠ぉ?」

 

 殺気が膨張し、背中から火に炙られるような感覚。そして、炎よりもなお燃え狂うような怒りの声。

 

「何で、背中の封印を解いている――――?」

 

 答えによっては殺す――――とばかりに怒りの声を発する母ちゃん。

 でも、でも、でも、でも――――――――何、封印って?

 

「答えろ」

 

「いや――――母ちゃん? 封印って何? 訃音の間違い?」

 

 おれは何のことかサッパリ過ぎて、肩をつかまれたまま恐る恐ると、背後を見ると――――――――きょとんとした、母ちゃんの表情が見窺えた。

 

「背中の刺青・・・・・・・・・見てないのか?」

 

「どうやって見るのさ? 背中だよ? 鏡使ったって中々見れないじゃん?」

 

 きょとんとする母ちゃんの言葉に、おれもきょとんとなって返答する。

――――しばらく、というか、多大に間抜け面をしたままおれと母ちゃんは見詰め合うと、母ちゃんは小さく噴出した。

 

「いや、(ワリ)ぃな。勘違いしちゃった」と、茶目っ気な笑顔でウィンク。おれ以外なら、きっと全て許されるであろうテヘ。何て、付け加えた笑顔がキモぃ・・・・・・・・・歳考えろよ。それに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・勘違いで、人を轢こうとしたの?

 

「となると・・・・・・・・・詳しい話が聞きてぇんだけど・・・・・・・・・お前じゃ、説明できそうも無いわな――――」

 

 呟き、手を二回叩き始める母ちゃん。

 

「美殊! 美殊は居るか?」

 

「って、母ちゃん? 此処何処だと思ってんの? ビルの屋上だよ?」

 

 ざっと見たところ、一〇建の雑多ビルの屋上である。

そして、店からかなり離れている。

そんな、いくら何でも――――

 

 

「御前に――――」と、当たり前のようにおれの横に、何時の間にか現れている! 当然の如くおれの横に居る! しかも、試着室で着ていたノースリープを丁寧におれの肩に掛ける気配り付きだと!

 

「遅いぞ! 美殊!」

 

「いや、早いよ! 忍者もビックリだよ! しかも、おれに上着まで着せる気配りさも!」

 

「とりあえず、私が留守の間に何があったのか説明しろ」

 

 また、おれの突っ込み無視? ちょっと、寂しいんですけど。なんだろう? 母ちゃんの前だと、驚き突っ込みキャラと化してないか、おれ? 霊児さんの影響か?

 

「――――はい。京香さんが留守の間に悪魔憑きになった同じ高校の生徒がいました。名前は――――えっと・・・・・・・・・名前は・・・・・・・・・たしか・・・・・・・・・誠? 覚えていますか?」

 

 言われ、おれも頭の中を整理する。

 

「確か・・・・・・・・・キングギドラで、版権無視のフォルムで、下半身に腰布巻いた奴・・・・・・・・・だったよね?」

 

「どんな変態だ? そいつ? ちゃんと警察に通報したのか?」と、母ちゃんは突っ込む。

 

「あぁ〜もういい。その変態はA君として、話を進めろ。できるだけ簡潔に、解りやすく」

 

「・・・・・・・・・確かに、イニシャルはAだと覚えていますが・・・・・・・・・まぁ、どうでもいいでしょう」

 

美殊は母ちゃんの意見に頷き、話の脱線から復帰する。しかし、おれはどうにも思い出せない。確かに〈誠バスター〉を決めたムカツク奴だと、覚えているのに・・・・・・・・・名前が思い出せない。

いや、むしろ名前を聞いてないのか?

 

「そのA君は、謎の女魔術師と何かを企てに操られ、あまつさえ悪魔の力にいい気になり、配下を使って私と誠を襲ってきましたが、その時に誠の封印は一つ解除され、その後にも噛ませ犬風情でハッチャケ続け、二個目の封印を解いた誠に、身はボコボコ。心は棒線を一つ加えて、ボロボロにされました」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・美殊?」

 

 解り辛いギャグだよ。そして、それよりも、

 

「〈噛ませ犬〉と一緒にしちゃダメだ。〈噛ませ犬〉ってまだこう、〈強敵でも噛み付く〉って雰囲気があるし、現在進行形っぽい。だからむしろ、あれは〈負け犬〉だよ。無駄に負けた負け犬だって」

 

 美殊はおれの顔を見て、おぉぉと頷く。もしかして、兄としての株が上がったのか? なら、いいこと言っちゃったかな?

しかし、おれの意見に、今度は母ちゃんが片方の眉毛を上げて言う。

 

「おいおい? 〈負け犬〉だからってリベンジマッチがあるぞ? 話を聞く限りじゃ、そいつはリベンジも出来ないくらい、ボロボロボコボコなんだろ? それに女魔術師の企みも阻止されているようなもんだ。なら、私は〈犬死〉が妥当だと思う」

 

 厳しすぎるぜ、母ちゃん? 確かにそうは取れるけど、死んでないし、殺してない。

しかし、母ちゃんの言に対して美殊は首を傾げる。

 

「確かに死んだも同然ですが、事実上は死んでいません。それにいい気になって暴れ回り、強いと思わせ、簡単に殺られる。ある意味、未知なる敵のやられ役となっている〈噛ませ犬〉気質な上、〈負け犬〉の権化です」

 

 ちょっと、おれもムキになり始めてきた。

 

「だからぁ! 〈噛ませ犬〉でも、噛み付く時は噛み付くんだよ? やり返すんだよ? あいつ、やり返してこないじゃん? 負け犬の中の負け犬。〈ザ・負け犬〉根性だったぞ? 浪速のロッキーにボコボコニされた、矯正サースポーの如く終わりだよ」

 

 しかし、母ちゃんも何故かヒートアップして横から口を挟んできた。

 

「ちげぇ〜だろうが! そのボクサーだってけっこう善戦してカッコ良かったぞ? 見せ場があったじゃねぇか? 見せ場もクソも無くヤラれ、目的のもの字も無く、ボロボロなんだろうがぁ? だったら、完全無敵な〈犬死〉だ! ガンダムパイロットの友人が、速攻で死ぬような、チョい役的な〈犬死〉だろうが?」

 

 何故か、火花が出るほどに互いの意見を言い合うおれ達。

 しかし、これだけは譲れん。譲れんのだ。

 おれも含めて、母ちゃんも美殊も犬好きのせいか、互いに一歩も退こうとはしない。

 あぁだ、こうだぁ、あれだぁ、それだぁ言いまくる最中――――おれはふと、どうしてこんな話を屋上でしているのかと、悩んでしまった。だが、忘れているなら、そんなに対した事でもないだろうと、考え直す。

 そう! 〈負け犬〉、〈噛ませ犬〉、〈犬死〉のちゃんとしたランク付けをしなければならい。

 

 

 

 四月一八日。午後三時三三分。喫茶店キサラギ。

 

 異界の店内。清掃も終え、カビも綺麗に拭い切ったが、どんよりとした空気だけは払拭しきれていない。

 鷲太は店内から居間へと繋がるドアをもう六回も開いて、そして七回目の溜息を付いた。

 

「無駄なことに体力を使うな。鷲太」と、カウンターの中でコーヒーを飲む駿一郎に、鷲太は軽く睨むように振り返った。

 

「どうなってるんだよ? 一体全体? こんなことって起きるもんなのかよ!」

 

「無駄に狼狽するな」

 

 冷静でどこかおちょくるような父親に、意地でも冷静になるものかと、意固地になりかかる。

 

「そうだな? 時間潰しにちょいとばかり長話をしてやろう。コーヒーでも呑みながら話してやるさ」

 

 渋々と承諾の意を見せるように忍の隣の椅子に座り、出されたコーヒーに手もつけず、イライラしながら父親の顔を見窺う。

 

「さて――――」

 

 駿一郎から見て右から鷲太、忍、弥生の顔を見窺いながら、煙草に火を付けて語り始める。

 

「まず、質問とかは俺が話を終えるまでとっておけ。俺が話すのは、現状の詳しい説明だ。まず、〈結界〉という隔てられた空間に俺達は閉じ込められている。ちなみに、アヤメも同じような現状だろう」

 

「お母さんが?」弥生の言葉に、駿一郎は頷く。

 

「昨日の晩に言っていた、意識不明の患者を診にいってからな――――多分、俺達はそのとっばっちりに合っている」

 

 オフクロ・・・・・・・・・と、唸りながら頭を抱えてしまう鷲太に、駿一郎は肩を竦める。

 

「落ち込む事は無い」

 

「落ち込んでねぇよ! トラブルメーカーだって溜息出してるんだよ!」

 

 鷲太の叫びすら、駿一郎には届かない。むしろ、そよ風のように受け流して話を進めていく。

 

「遅かれ早かれ、これは起こった。児童公園にもそれらしい印もある。あれだけだとはとても思えない。家を丸々呑み込むような結界だから、街中の至るところに張り巡らされていると、考えて妥当だろう」

 

「どうして、街中にあるって断言できるんですか?」忍の言葉に、駿一郎はいい質問だと言うように、クールに笑う。

 

「退魔家って言う、古来この街を縄張りにする一族がいる。夜神(やがみ)家、陽神(ひかみ)家、神那(かんな)家、神城(しんじょう)家、神島(こうじま)家、神宮院(じんぐういん)家はお前等も知っているだろう? ほら、新聞でもよく載っている名前だ。財閥や財団、コーポレーションだからな。その裏の顔っていうのか、本業が退魔家業だ。まぁ、その中で、街中に結界なんかを張り巡らせようとするのは、神城家だろうな。京香から聞いた話だけだから、半信半疑だったが、〈結界師〉の異名は伊達や酔狂の類じゃなく、噂通りだったのは、俺も意外だったがな」

 

「ちょっと・・・・・・・・・待てよ? 何で、京香さんの名前が出る? そこで?」泣き笑いのような、鷲太の顔を見ながら駿一郎は頷く。

 

「六家ある退魔家の本家本元が、真神家だ。京香はその当主だ」

 

 がっくりと項垂れる鷲太に、忍は小声で聞いてみた。

 

「その京香さんって言う人と、面識があるの?」

 

「・・・・・・・・・誠さんのお母さん」

 

 あの人の容をした、悪鬼の化身。不良を捻じ伏せたあの羅刹の如き鬼を生んだ母親・・・・・・・・・それは・・・・・・・・・恐怖の権化なら、きっと鬼のように怖い人に違いないと、忍は固い唾を飲み込む。

 

「〈七大退魔家〉は、俺が二十歳の頃がピークだった。その頃は、鬼門っていう〈力〉の出入り口を管理していたが、その二年後にはある一人の男によって支配され、未だに何故、人類滅亡だの淘汰だのをしたかったのかも、解らんが・・・・・・・・・まぁ、俺とアヤメと京香はそいつとは全くの正反対で、全くの逆位置の存在だった仁と一緒に闘って――――」

 

「はい、はい。滅亡から救ったとかいうんだろう? そんなもん、信じられるかよ」

 

 鷲太は唇を尖らせて、そっぽを向く。本人は、小学校に上がるまでこのことを信じていたので、この話になると払拭しきれない恥辱の過去を、蘇らせる材料にしか過ぎない。

 

「宇宙から来た怪物を倒したぁ? 少年誌じゃねぇんだから、そんな話が信じられる訳無いだろうが? それに近所の名前が出る時点でうそ臭いじゃんか」

 

 話の半疑に今は考えないでおくほうが、無難と忍は打算した。

だが、また知らない人の名前が出てきたので今度は弥生へ、その仁という人とは、誰かと訊ねてみた。

 すると、仁は京香さんという鬼母神の婿養子と弥生は簡潔に返答した。しかし、弥生の顔は年相応な笑顔でこう付け加える。

 

「仁さんって、誠とすごくそっくりなの。頼りなくて情けなくて、大型犬みたいな愛嬌があるの。こう母性本能を擽られっていうの?」

 

 弥生ちゃんの年齢で、母性本能が擽られるなら、その人は大層な頼りない人だろうと、忍はイメージを固め始めた。

鬼母神に奴隷の如く扱われる、パトラッシュのようなものかな? だが、あの羅刹とそっくりなんて、中々イメージが定まらない。

そんな忍に、それでも弥生は嬉しそうに続ける。

 

「でも、傍にいるとすごく落ち着く人かな? 安心感かな? う〜ん、何て言えばいいんだろう? 頼りない人なのに、こう自然と頼りにしちゃう人かな?」

 

「そんな所だな」

 

と、駿一郎も弥生の仁という人物の評価に頷く。

だが、鷲太は眉を寄せる。

 

「そっかぁ? あの人は何処にでも居そうな、普通の人だぞ? オヤジみたいに目立ちたがり屋じゃないし、お袋みたいに危険思考の毒舌でもないし、京香さんみたいに過激じゃないし、誠さんみたいに暴力の権化みたいな感じも無い。一般的で平均値みたいな人じゃん?」

 

「それも、仁の正しい評価だな」

 

 駿一郎は頷くが、忍としてはますますイメージに困る人物だった。それに対し、駿一郎は何処か、思い出すかのような笑みを浮かべる。クールで不敵な笑みではなく、懐かしむような微笑で唇を開いた。

 

「俺が、あいつの気に入った所は前向きな姿勢と考え方だな・・・・・・・・・何が置きたって何とかしよう、何とかなる、それで駄目でも、自分じゃない誰かがきっと何とかなるって、考え方だ」

 

「それは、ある意味他力本願のような?」

 

 忍の率直な言葉に対し、駿一郎は首を横に振る。そうではないと、きっちりと。

 

「アイツはそんな考えで行動をしない。切羽詰った場面で、誰もがもう駄目だと思う時に、誰もが諦めるが、アイツはそれでも諦めないだろうよ。全霊で行動の一つ一つに入魂する。そんな奴だから、頼りになる。本当にいい奴だった」

 

 父親たる駿一郎が、熱のある口調で語る言葉に、子供二人は驚いて眺めていた。もちろん、忍もその一人である。

 淡々と、抑揚の揺らぎがあまりにも少ない駿一郎が、懐かしむような口調には驚きだった。

 

「さて――――話が反れてきたな。まぁ、結果的に〈結界師〉が張った結界は、出ようと思えば出られるが、それはその〈結界師〉の本体に行く必要がある。もう一つ方法があるとすれば、徹底的破壊だ。俺はそれが効率よく出来る」

 

 この異界を破壊できると、言い切った駿一郎に、「じゃぁ、早くやれよ?」と、鷲太はふて腐れ気味に言うが、駿一郎は肩を竦めて溜息を付く。

 

「アヤメもとっくにそれをしたがっている。だが、やらないどころか、磯部綾子って入院患者を調べろと、言ってきた。なら、簡単だ。内部破壊を諦めた理由は、異界自体に入院患者とかも囚われているんだろう。ぶっ壊すなら簡単だか、生き返らせるのは無理だな。俺でも」

 

「つまり――――」忍はおずおずと、

 

「――――入院患者や、そのアヤメさんって人の安否も気遣わずにすれば、脱出は可能という意味ですか?」

 

「ああ。だが、やりたくない。アヤメも俺も昔は散々、血生臭いことをして来たが、今は矜持がある。息子と娘に恥ずかしくない行動を、心掛けている」

 

 淡々とした口調の中に、確固たる意志を見せる駿一郎を見て、鷲太は最後だけうそ臭いと猜疑的な目で父親を、生温い目で見た。

 その時だった。店の取り付け電話から、けたたましい音を響かせたのは。

 忍と鷲太は、不気味に鳴り響く取り付けの電話を凝視する。だが、駿一郎は何の感動も無く、受話器を取った。

 

「おい!」

 

 驚きながら父親を静止する鷲太。このような、異常空間で電話などが機能するはずも無いと、頭の片隅で考えていたことだ。そして、この電話が何かしらの罠かもしれないと、直感する。しかし、受話器を受け取った駿一郎はクールな笑みのまま、全員の顔を窺いながら口を開いた。

 

「アヤメだ。安心しろ」

 

 

結界内部のマンション廊下。

 

 

久遠ユウコはだるくなった足を伸ばし、階段に座り込んだまま頭を抱えていた。

 

「ねぇ? アヤ? 教室を抜けて化け物に遭遇して、廊下を抜けてゾンビみたいな奴に追われながら、体育館の倉庫扉を開けたのに、何でアタシらは、こんなマンションの階段をおりている訳?」

 

「さぁ〜? でも階段があるなんて逆にラッキーだと思うな?」

 

 携帯電話を何度も操りながら返答する。今更、何で携帯電話なんかいじっているのかとは、ユウコには聞く気になれない。異常続きで心身ともに、参っていた。

 

「それに、あたし等は何で下に向かってるのよ?」

 

「ラスボスが居るから」と、何時もののほほんとした口調に、ユウコは怪訝になる。

 

「何で、ラスボス・・・・・・・・・てか、磯部綾子が居るって解るのよ?」

 

「まぁ、RPGの基本ならボスは頂上が王道だけど・・・・・・・・・こんなに大きな〈結界〉を張り続けるなら、最深部で機能した方が確実だからねぇ〜」

 

 また、訳の解らない言葉を並べられたユウコは溜息をもう一発発射した。その時だ。何故か、携帯電話に向かってアヤメが話し始めたのは。

 

「もしもし? 駿一郎?」

 

『ああ。アヤメか?』

 

 ほっと、胸を撫で下ろすような仕草をするアヤメに、ユウコはこんな異常な世界でも、電話が繋がる僥倖に驚きを隠せなかった。

 ユウコはアヤメのダンナとは、面識はあるが・・・・・・・・・メタルロッカーの兄ちゃんで、アヤメと同じく年齢不詳の風貌と覚えている。

 ユウコには受話器の声は聞き取れないが、アヤメの声だけは聞き取れる。

 一言一句聞き逃さないよう集中する。

 

「店は大丈夫? 駿一郎や子供達に怪我は無い?」

 

 やはり、母親だ。子供を心配するアヤメに心配そうな顔色が窺える。

 

「もし掠り傷でもあるなら、ワタシがそいつをぶっ殺すけど?」

 

 やはり、アヤメだ。子供を心配するような顔色で、物騒すぎることを平然と言い放った。

 

『大丈夫だ。子供達に怪我は無い。しかし・・・・・・・・・ギターは傷付いたが・・・・・・・・・』

 

「もしかして・・・・・・・・・・・・ポールちゃんが!」

 

 電話越しの駿一郎は、カウンターに置かれたギターのボディーにくっきりと付いた歯形を眺め、

 

『全治三ヶ月だ・・・・・・・・・』

 

 短く答える駿一郎。嗚咽すら混じる。

しかし、同情を引くほどアヤメは甘くは無かった。

駿一郎の誕生日&結婚記念日にプレゼントした大切な思い出の品を!

 

「ファッキン・アス・フォ〜! ぶっ殺すぞ〜? あんたが付いていながら、何て様なの!」

 

 ――――うぁ・・・・・・・・・日本語発音で、隠語を叫んだよ。と、思うだけで突っ込まずにユウコは思う。

そして、虫も殺せそうに無い微笑みを浮かべながら、ぶっ殺すとかを言えるのか、不思議で仕方が無い。長年の付き合いですら、未だに解けない謎である。

 

「ブイちゃんが良いのね? そんなに!」

 

『そんなことは無い。色々なタイプと接するのも経験だ』

 

「ロッカーならポールちゃん一筋で通しなさいよ! 浮気者! 鬼畜! サングラス!」『待て? サングラスは何か関係があるのか?』

 

など、アヤメは受話器に向かって罵声を迸らせる。

 犬も食わないケンカをというのか、アヤメが一方的に理由を付けてダンナを罵り続けていた。しかし、そこはアヤメのダンナである。さりげなく、何気に話の方向を修正する。

 

『それより、気付いているのか? 魔術や電話での連絡手段を取れるのは、定められた〈時刻〉のみだぜ?』

 

 言われ、アヤメは腕時計を見て受話器に向かって頷く。

 

「うん。ユウちゃんとも話し合ったんだけど、大体の輪郭は見えてきたよ。きっと、この〈結界〉が現実に進行する時刻と重なると思う。それと・・・・・・・・・・・・」

 

『他にも?』

 

「そうなの〜。電話を掛け始めたのが三時三三分」

 

『お前が俺に連絡を入れたのは、確か二時二二分』

 

「なら、この〈時刻〉が絶対に壊せないルールの一つだね。そして、何だが〈磯部綾子〉って患者は四回の自殺未遂を犯した時刻が――――」

 

『二時二二分と三時三三分が、一度目と二度目だな?』駿一郎は答え、アヤメは深々と頷く。先ほどの罵声すら置き忘れたように続ける。

 

「この子って、とんでもないよ。何でもかんでも自分の精神に取り込んじゃうみたい」

 

 聞きながら、ユウコは異常すぎる結論を出したアヤメとの会話を思い出す。

 

 

――――きっと、磯部綾子ちゃんは自分を〈傷付ける〉人間を恐れていると思うの。

 

 なら、どうして自分の精神世界とも言えるこの世界に、閉じ込める必要があるのか? 天敵を招き入れるような愚を犯しているのでは?

 それについて、アヤメは肩を竦めて言った。

 

――――だって、〈自分の世界〉だよ? 〈自分の思い通りになる世界〉だよ? 天敵だろうと、何だろうと、関係の無い自分の領域だもん。何でもできるし、何でもありだから、絶対に負けることはありえないもの。

 

 

 つまり、この世界に入った時点でどうにもならないことを意味していた。

 

『なるほどな。それなら今さら足掻こうと、どうにもならないな』

 

「どうにもならないね〜」と、アヤメはのほほんと笑いながら、駿一郎に同意する。しかし、すぐさま眼光を鋭くして呟いた。

 

「だからって、素直に諦めてあげないけどね?」

 

『まぁな。大体は解った。後はこっちでも、出来るだけ磯辺綾子を調べてみる』

 

「うん。今度は四時四四分に連絡を寄越してね?」

 

 そう言って電話を切り、携帯電話をポケットに戻した瞬間だった。

 ユウコの肩をいきなりアヤメは掴んだ。

 そして、徐に引っ張る。物凄い力に引き寄せられ、突っ伏しそうになる。

 

「ちょっ――――!」

 

 抗議の叫びを上げようとしたが、言葉は喉の奥で停滞する。先ほどまで自分が居た場所に、巨大な拳がコンクリートの床を砕き散らせていたからだ。

 唾を飲み込んで、その巨大な拳から繋がっているシルエットを見定める――――マンションの天井を擦るか、擦らないかの高さにある頭部。肩幅だけで端から端までを占領する巨躯。

 怒りの形相たる鬼が牙をぎらつかせながら、アヤメとユウコを見下ろしていた。

 

「廊下は狭いんだから、君みたいな人は無駄な贅肉を殺ぎ落としてから来なさい」

 

 ピシャリと説教口調で言い放った。

綺麗な白衣の先生が、メッ! と、怒るようにしか見えないような微笑みで。

平然と毒舌を言うアヤメに、ユウコはもうパニック状態だった。

 

「あんた! 状況見てから毒吐きなさいよ! もっと、この場に相応しいセリフとかあるでしょうが! ちゃんと頭の中は詰まっているとか? 獣臭いから香水くらいつけろとか! 挨拶がゲンコツってママに習ったのか? って、決め台詞くらい言いなさいよ!」

 

巨大な化け物を前にして、ユウコの様々なストレスが爆発。自分の抱いた感想そのままに喚き散し、舌先は大暴走する。

言葉のマシンガンに巨大な化け物は、ユウコの言葉で殴られたかのように後退りしてしまう。

 

「ユウちゃん? 体臭とかは言っちゃ駄目だと思うよ? ほら、気にしていたみたいだよ? 怒っているよ?」

 

「えっ?」

 

 言われて見ると鬼は顔を下げ、肩を震わせていた。握り拳からは涙のように血が流れていた。

 打ち震え、目からは悲しみと怒りの炎が鬼火のように燃え狂っていた。

 

「あっ・・・・・・・・・言い過ぎた――――」

 

「ゴオオオオオオオオオッ!」

 

 謝ろうとしたセリフは鬼の怒号によって消された。

 類を見ない体躯で、あらん限りの咆哮にマンションの壁から天井まで震動させ、圧死しろ。否、爆死しろと言わんばかりに大木のような右拳が二人に肉迫する。

 悲鳴すら出せず、全身を硬直していたユウコの襟首がまたもや高速に引っ張られる。引っ張ったのはアヤメ。

 アヤメは拳をミリ単位で避けられる位置に移動の際、アヤメの襟首を引っ張ったと同時――――ユウコの身体を棒術のごとく腰を支点にして回転させながら、あろうことか鬼の懐へ肉迫。そのアクションと同時に、遠心力の付いたユウコの足――――正確にはハイヒールで鬼の右目に深々と突き刺す!

 

「ゴォオアアアアアアア!」

 

「何! 何なの! 足からジュクジュクした感触が!」

 

 鬼の悲鳴とユウコの悲鳴が重なり合う。

 しかし、右目が潰された鬼はさらに怒りの濃度を上げ、アヤメに向かって拳を食らわせようと、渾身の左ストレートが放たれるよりなお早く、アヤメは次の行動のためにすでに動き始めていた。

 鬼の右目からユウコを引き抜き、それを上へと放る。人一人分の体重など無視するかのように、天井スレスレまで中空で回転し、ユウコの鼻先が天井で軽く小突いたその刹那。

 アヤメの姿が金色の光を放つ紅の鳥人に変身し、その右ストレートに向かって飛翔する。

 太く、巨きな大木の如き腕が金色の軌跡で螺旋が描かれる。軌跡が通った後の腕はボロ雑巾が絞られたかのように捻じれ、血飛沫を上げる!

 しかし、金色の軌跡は止まらない。螺旋を描き、その最終地点と見定めたのは鬼の左胸。接触と同時に、ユウコの耳には今まで聴いた事も無い爆発音が響く。

 その音は鬼の左上半身を丸ごと消え去る音――――左肩の鎖骨から左の脇腹までゴッソリと、跡形も無く吹き飛ばした音だ。

 不死身鳥(ガルーダ)の変身を解除したアヤメは、鬼の背後で左手と両足で踏ん張りながらブレーキを掛ける。コンクリートの床が飴細工かと思うほど、そこには抉れた跡を残して。

 だが、鬼は驚異的なタフネスでもあった。右目が潰れ、左上半身が消えた先から噴水のように血飛沫を上げながらも、背後に回ったアヤメへ最後とばかりに残った腕でバックブローを放つ。しかし、それが鬼の致命的なミスだった。それが、アヤメの狡猾なまでの策略でもあった。

 

「ウゥウアアアアアッ!」

 

 叫びの主はユウコである。回転し、クルクルと回転し――――叫びの主を確かめるために顔を上に向けた瞬間・・・・・・・・・左目に突き刺さるハイヒールの踵。

 

「ウギャァァァア!」

 

「アアアァッ! アアアッ! また! また、あの感触が! 何! 何のよ!」

 

 二度繰り返される鬼とユウコの悲鳴。

 アヤメはもうすでに、鬼の懐へと潜り込んだ後である。

 片方の唇を吊り上げ、不死身鳥の姿となって全身で渾身の力を持っての、飛び膝蹴りが鬼の顎を完膚なきまで粉砕する。鬼の口腔から赤い糸を引いた無数の牙が舞う中で、ユウコの身体を翼で抱かかえ、左右の回し蹴りと逆回し蹴りの竜巻が、鬼の顔面に満遍なく、光速で叩き込まれていく。

 錐揉み回転していたスピードを、片翼で羽ばたきだけで緩めて、静かにアヤメが着地するのと、背後の鬼は背中から地響きを起こして倒れ付したのは同時であった。

 不死身鳥の変身を解除したアヤメは、軽く髪を撫でた。当然とばかりの、自然な動作だった。

そして、青い顔をしているユウコを見窺って、ギョッとした。

散々棒のように回転させられ、回転しながら落下し、あまつさえアヤメの竜巻のような蹴り技も回転だった。

両の頬をリスのように膨らませ――――誰もが聞きたくない音を床と、アヤメの白衣にぶちまけていた。

 

 

 

四月一八日。午後三時三五分。喫茶店キサラギ。

 

 電話を切ると同時に、それは床を砕きながら現れた。

 店の天井すら頭に届く、巨躯――――昔話に出てくる鬼のイメージそのままに。

 

「なっぁ! 何だよ今度はぁ!」鷲太はその鬼を見て、知らず悲鳴のように叫んでいた。

 

「あっぁあぁぁ・・・・・・・・・」忍には、叫ぶも悲鳴も無く、圧倒的な威圧感に呑まれている。

 

「ワオー」弥生だけは鬼を見て、肩を竦めている。

 

 そして、駿一郎は優雅にグラスを磨き初めながら鬼を鼻で笑う。

 

「モカとエメラルドが解るって面じゃないな?」

 

「そうだねぇ〜」

 

 駿一郎に賛同するように頷く弥生。その二人を見て、鷲太の気は狂いそうになる。

 

「何なんだよ? お前等は! クソ落ち着きやがって! 叫んでバッカいるオレがバカみたいじゃねぇか!」

 

 鷲太の絶叫に、弥生と駿一郎は肩を竦めて何を今更と言わんばかりの顔付きになる。

 鬼の存在などを忘れ、本格的に駿一郎と弥生へ怒りを向け始めようとした瞬間だった。

 忍と駿一郎は、同時に動いていた。

 忍が鷲太を体当たりして、己も横っ飛びする。

 駿一郎も、弥生の小さな身体を片手で抱えて忍と逆方向に弾かれたように飛んでいた。

 その二人の間に、鬼の拳は炸裂する。

 カウンターの木材を砕き、クローゼットを爆砕し、ガラスの乱舞を撒き散らしていた。

 駿一郎は片手に弥生を抱えながら、床に空いた手を付けて体勢を整える。

 忍は鷲太と共に躱すだけが、精一杯で降り注ぐガラスの破片から身を守るために身体を丸くして床に転がっていく。

 

「ノックをするなら、ドアだろうに」

 

 抱えていた弥生を下ろして、軽く肩を回しながら一歩力強く前に出る。駿一郎の挑戦的な態度に、鬼は嘲笑のように口元を歪めて筋肉を隆起しながら身体を向ける。

 転がり終えた忍は、鬼を警戒しながらゆっくりと音を立てないように、今だ状況がわかっていない鷲太を引っ張りながら、駿一郎の邪魔にならない位置へと移動を始めていた。

 それを視野に入れながら、駿一郎は忍に感心していた。

 最初、鬼を見た時の驚きと愕然とした少女が今は場数を踏んだ、一端の兵士のような慎重さでジリジリと鬼の射程距離から脱しているのだ。

 駿一郎の負担はこれで消えた。

 鷲太は情けない息子ではあるが、何時までも女の影に隠れる柔な育て方などしていない。必ず自分の意志で、危機を対処しようとするだろう。

 弥生も弥生で、これから駿一郎がやろうとしていることを察している。店主の言う事を聞かないジュークボックスへと歩み最中――――怪訝な顔をして立ち止まった。

 

「お父さん?」と、弥生にしては珍しく強張った声音だった。

 

「あぁ?」

 

 軽く返して、鬼から視線を外さず答える。

 

「これって・・・・・・・・・レスポールじゃないかな・・・・・・・・・?」

 

 弥生の言葉に、鬼の存在も忘れて身体事振り向いた。

 弥生の両手にあるのは、弦が千切れたギターのネック部分のみである。

 確か――――ギターハ、カウンターニオッキッパナシニシテイタ・・・・・・・・・つまる所、鬼の一撃によって・・・・・・・・・爆死した。

 信じられない結果と思考の結論に、駿一郎の頭の中は真っ白になってしまった。完全な停止状態。

その呆然自失している駿一郎の身体に、鬼は雄叫びを上げながら拳を振り落とした。

轟音だけで建物を崩壊するに相応しい鉄塊の一撃。無防備な駿一郎へと振り落とされた!

忍、鷲太の絶望的な恐怖の映像を避けるため、目を強く瞑る。

腐った果実よりも確実に、駿一郎の身体は血と肉片をブチ撒ける様。そんな物を誰が好き好んで見るものか。

そして、果実が潰れたような異音が響く。

グシャリと――――――――弾けた音が響く。

駿一郎が、潰れた音だ。と、忍は瞼をきつく閉ざしていた目を恐る恐る開いた。

ちょうど、忍の視界に拳を突き出したままの鬼の輪郭が見える。血飛沫が盛大に上がっていた。人間一人分の血が、一滴残らずぶちまけられた様に。そして何という事か、駿一郎は今だ原型を留めている。あの鉄球の如く巨大な拳が、丸ごと消え去っていた。

鬼自身、消え去った己の手首から噴出する血飛沫と、駿一郎を慄然とした表情で見比べている。だが、その張本人であるはずの駿一郎は、フラフラと危なげな足取りで弥生の前に立ち、震えた手でギターのネックにそっと触れた。触れた衝撃で、ネックに引っ掛かっていた最後の弦が調子外れの音を発して、床に落ちていく。

 

「あっあぁぁぁ・・・・・・・・・」

 

 ギリギリと搾り出したかのような、震えた声音。

項垂れ、小さくなっていく駿一郎の背中を鷲太は初めて見た。どんな時でもカッコつける事と、冷静さを美徳とするような父親が、人の目すら気にせず声を殺して震えていた。

 

「お・・・・・・・・・オヤジ?」鷲太は声を掛けずにはいられない。何故なら、まだ鬼は存在している。しかも、その合間の末に腕からはもう新しい組織が構築され、血は止まり、肉の芽が隆起して掌まで再生を始めていた。

 

 ものの数分で、指も生えて全快するであろう鬼は敵と認識している駿一郎の注意のため、忍と共に駿一郎の傍まで歩み寄る二人を何の素振りも無く見逃した。

 自分の手に何が起こったかは、解らない。だが、駿一郎の異常さと危機感に軽はずみな行動を自粛していた。次に何かを起こす時は、全力の一撃を繰り出すために全身の力を蓄える算段であった。

 

「オヤジ? おい!」

 

 鷲太は肩を揺するが駿一郎は顔を下げたまま、されるままに身体を揺らす。もう、鬼は指が再生し、ギラギラと照り返す爪まで生え終えていた。

 

「ぶっ・・・・・・・・・・・・・・ぶっ殺してやるぞ、てめぇ〜」

 

 顔を上げ、嗚咽の喉で無理矢理吐き棄てた駿一郎は力の限りに、床を踏みしめる。バギバギと、床を砕け散らせて一歩、一歩と鬼へと進んでいく。

 

「あの・・・・・・・・・オヤジ?」鷲太はその怒気で陽炎すら作る父の背に声を掛けるものの、返答は無い。

 

「あれは、本気で怒っているね・・・・・・・・・成仏してね?」弥生は父の背中から、悲しそうな面で鬼を見上げる。

 

 その変化・・・・・・・・・というのか、正常に戻るというのか。忍は困惑しながら見守る。

 

「えっ・・・・・・・・・・・・」

 

最初に駿一郎の変化に気付いたのは忍だった。陽炎が輪郭を描き、天使を構成していく。

闇よりも濃く、それでいて眼が覚めるような黒翼を一二枚。その翼を優雅に、雄々しく広げている。

五感全てに訴えかける〈死〉を内包したかのような、刺々しい黒衣を纏いながらも、気高い後光に息を呑む。

今を持って〈セフィロトの木〉に沿い、十番目の星にして母なる大地を守護する管理者、〈サンダルフォン〉が如月駿一郎の元に現顕した。

駿一郎の変貌に慄きと畏怖を見せ始める鬼に、全身から烈気を放つ駿一郎は右手を翳す。掌は空間が波紋を作り、手首がすっぽりと隠れてしまう。

ゆっくりと右手を引き出し・・・・・・・・・現れたのは黒一色のひし形し、左側に拷問道具の刺が打ち付けられた骸骨である。左右非対称のひし形を先端とした、不可思議な物体。

 

「あっ・・・・・・・・・あれは?」

 

「決まってるじゃ無い。魔術師が持つものといえば杖でしょう?」

 

 しかし、杖と呼ばれた物が甲高い金属音を発し、ひし形から柄尻まで六本の弦が張り巡らされる。

 

「むしろ杖みたいなギターが、正しいかな?」

 

 弥生の言と同時、ギターと呼ばれた杖から黒い革製ベルトが生物のように駿一郎の身体に巻きつけられ――――ハーネスのような容でギターのストラップの代わりと化したネックを左手で握り締める。アンプコードが、毒蛇の如く背にいるサンダルフォンの襟首に突き刺さった。

 サンダルフォンの唇が開かれ、緩やかなハウリングが零れる。

 駿一郎が右手を開くと、何時の間にか掌に金貨があった。金貨を人指から小指へ。小指から人差し指へと滑らかに回転させる。その金貨をギターのピックのように握る。

 

「飛べ」

 

 短く、絶対零度の殺気で宣告したと同時に、ギターが掻き鳴らされた。

 

「――――――――――――――――――――!」

 

天使の喉から、貫くような高音が迸る! 聴覚では捉えきれない光速言語! しかし、その言霊に宿る聖性は忍たちに向けられてはい無くとも、強烈な音の暴力に等しい! その凶悪極まりない聖音(せいおん)の全てが、鬼へとぶち当たり、宣告通りに巨木の如き巨体が中空に浮いた。

聖音の破壊は鬼の身体を端から端までボロボロとなり、白い粉末へと分解されていく! 駿一郎を中心とした一八〇度全ての物体が崩壊の序曲を奏でる!

ガラスを掻き毟るかのような高音で、サンダルフォンが歌う声は鷲太たちの鼓膜を破かんばかりである。鷲太たちは耳を抑えて懸命に堪えるもの、頭蓋から直接震動する光速言語が、殴られたように響き続ける!

 

「何でも! 魔術師って〈杖〉を持っているのが当たり前なんだって! 形状は様々で象徴的なものが多いんだけど! お父さんはギターが〈杖〉なんだって! ちなみに! お母さんは・・・・・・って! 聞こえてない! もしかして!?」

 

 弥生の叫びながらの解説など、聞える訳が無い。だが、忍には何故だか解る。

 額に疼く痛みが言語を作り、脳髄に直接的な知識として叩き込まれていく。

 

――――魔術師の杖は、言わば裏技だ。どんなに天使、悪魔、精霊と同調率を上げられるからといって、高次元の存在を〈召喚〉、〈憑依〉しても〈そのもの〉とは成れない――――そのために、杖があるのだ。〈召喚〉、〈憑依〉をさらに底上げするか、付加させるための魔術道具だ。

 

――――そして、堕胎の黒天使とギターを繋げることにより、音速を超えた聖なる言霊をぶつけ続ける――――光速聖句と、衝撃波(ソニック・ウェーブ)まで付加した聖性された暴力。

 

耳を懸命に塞ぎ忍は駿一郎の背を凝視し続けながらも、頭蓋を直撃する観察眼を整理する頃、崩壊していく店の壁からカウンターの残骸は撒き散らされ、鬼の巨躯は浮いたまま四肢はとうとう消え去り、残ったのは胸と頭部のみであった。しかし、それでも駿一郎並の全長がある。

サンダルフォンの歌はまだ止まない。病むように止まることを知らない。

ギターを掻き鳴らしながら、駿一郎は身動きどころか空中で身動きすらできない鬼に一歩、一歩進む。

何か、歌いながら進んでいくが、残念ながらサンダルフォンの爆音によって掻き消えてしまっていた。

そして、両手でギターを握り締める。頭部目掛け、ギターのボディーにある拷問道具の髑髏で渾身の力でブチ当てる! ライブのフィナーレを飾るかのように!

鬼の頭部から胸部に至るまで、血の代わりに白い粉末が吹雪く。

アンプコードがその拍子で外れ、コードの勢いにサンダルフォンの黒翼もまた巻き込まれたように舞った。

黒い羽根と、白い粉末が舞う幻想的な空間。

アンプが外れたサンダルフォンは、翼で己の身体を包むと燐光と共に駿一郎の背中へと消えていった。

 

「終わった・・・・・・・・・?」

 

 ゆっくりと耳から手を離し、ギターを握り締めたままの駿一郎に問い掛けるが、返答はなかった。忍と鷲太が怪訝としている中、弥生はテクテクと歩き、駿一郎の腕にそっと手を乗せる。

 

「ポールのお墓を作ってあげようね」

 

 弥生の優しさに溢れた声音にゆっくりと頷くの見て、あのギターはウチにとって金魚のように愛されていたのかと初めて知った。

 

 

 

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